君の手のひらの怪文書

とある百合厨のうわ言

今からでもわかるちなすずのポイント7選

 はじめに

 この記事はLostorage incited WIXOSSの森川千夏×穂村すず子限界オタクが書いた妄言です。妄言ですが、これを見た方がちなすずへの興味を深めてくれたらいいな……という願望も若干含まれています。基本的に文章を書くのは得意ではないのでちなすずの魅力を伝えられるか大変心配ですが、これを読んだ後で「うわこいつの頭かわいそう……ロストレージ見てちなすず書いて/描いてやるか……」という気持ちになっていただけると嬉しいです。

1.公式サイトの説明文

 公式サイトで放送前に公開されたキャラクター解説の時点で森川千夏と穂村すず子がただならぬ関係性であることが示唆されており、放送前から一人でテンションブチ上がっていました。

 まずすず子の方は「唯一の親友だった千夏の存在とその思い出に過剰に依存している」と書かれています。「依存している」というだけでもなかなかなのに、「過剰に」という文言でダメ押ししているところがさすがカードバトルにかこつけた女同士の感情バトルアニメだなといった感じです。私は女同士の依存関係が何より好きなのでここではっきり「依存している」と書かれたことで一気に視聴意欲が跳ね上がりました。(もともと前作のファンなので楽しみにしていましたが、その期待度が一気に高まった感じです。)

 一方で千夏の方にも「すず子が向けてくる憧れの感情を誇らしく思っていた」という見過ごせない一文があります。これもなかなか危ない兆候です。憧れる/憧れられるという関係は、それが一方的なものである場合どう見ても対等な友人関係ではありません。すず子は関係に依存し、千夏は対等ではない関係に喜びを感じている。この時点でこの二人に何か起こるのは明白でした。さらに、キャラクター解説には千夏の家が金持ちから貧乏に転落したこともはっきり書かれていたので、千夏がすず子に対して「落ちぶれた自分を見られたくない」みたいな感情を抱いて関係が縺れるのではないか……とも期待していました。(2話でその予想をさらに上回る展開を見せてくれたので本当に感謝しかありません。)

 さらに、すず子と千夏それぞれのルリグの紹介文にも注目すべき箇所があります。リルの「すず子のなかで最も大きな存在である千夏の記憶を反映させ、造形されている」、メルの「千夏のイメージするすず子に似た性格」というのがそれです。今作のルリグはセレクターの記憶から生成される仕組みですが、すず子も千夏もお互いをモデルにルリグを作成していることがわかります。これにも驚かされました。「本気で共依存百合をやりに来てるぞ」と震えましたね……。以上の説明文を読むと、すず子の方がかなり重たい女のように思えますが、実際は……。

2.容姿の対比 

 すず子と千夏のビジュアルが対照的であるところも好きなポイントです。まずすず子はいかにも女の子らしい見た目になっています。茶髪のロングヘアーで、赤いリボンで束ねてツーサイドアップにしてあります。前髪も切り揃えてあり、垂れ目がちで柔和な表情の、本当に「女の子」が意識されたデザインです。合わせて制服にも赤いリボンがあしらわれ、幼少期の私服もワンピースやフレアスカートが多く、可愛らしさが前面に押し出されています。

 一方で千夏はフェミニンでありながらボーイッシュな印象も強い容姿です。黒髪をアシンメトリーにカットしており、パンク系のファッションが似合いそうなかっこいい系の見た目をしています。つり目がちで、意志が強く自信に溢れた表情を見せることが多く、困り笑顔や憂鬱そうに俯いた顔が印象的なすず子とは対照的です。制服も色合いがモノトーン系でまとめられ、リボンではなくネクタイ着用のタイプなので、かっちりしたクールな印象を与えます。子供時代の私服もパンツルックやミニスカ+レギンスなど、動きやすさ重視の活発な印象のものでした。

 このようにすず子と千夏の容姿は対照的に造形されており、並んだときの見栄えがとてもいいです。可愛い女とかっこいい女が並ぶとそれだけで強い!!!そしてカップリングのオタクは対比が好き!!!対照的な要素を挙げて勝手に色々深読みできるし……。

3.OP映像

 OPにもちなすず要素が散りばめられています。まず、冒頭の「私を組み立てる記憶」という歌詞の部分で、すず子と千夏が背中合わせで回るシーンがあり、ここで本作品がこの二人の関係性を巡る物語であることが示されているように感じました。「背中合わせ」で「回る」というところがポイントだと思います。ウィクロスを基点にしてどうしようもなく惹かれ合うけど、互いに交わることはなく同じ軌道をぐるぐる回っている……という読み方が出来てとても好きなシーンです。

 また、「思い出の場所はあの頃のままなのに」という歌詞部分では、その歌詞に対応して千夏がすず子との思い出の公園に佇む様子が映し出されます。ここは第2回を見てからだとさらに感慨が増すシーンです……。「どこから変わったの?信じてたもの迷子になった 季節は過ぎても思い出の場所はあの頃のままなのに」という歌詞が第2回以降の千夏の状況と強く重なる上に、一体彼女は何を思って「思い出の場所」に佇んでいるのか……ということを考えると無限に妄想が広がっていきます。このときの彼女の視線はすず子と「ずっと一緒だよ!」という約束を交わした場所である遊具に向けられているのですが、口を固く引き結び浮かない表情を見せているので、ああ、この千夏は2話以降の千夏なんだな……と感じさせられ、ますますその心の内が気になってしまいます。

 ラストのウィクロスカードに閉じ込められたセレクターたちが現れるシーンも良いです。まず最初にすず子のカードが現れ、次いでほかのセレクターのカードが画面外からスライドしてくるのですが、ちょうど千夏のカードがはっきりと視認できるようになるタイミングで、ほかのセレクターのカードが重なりすず子のカードが見えなくなります。冒頭の背中合わせや、初代キービジュアル(現在のロストレージ公式ツイッターのアイコン)を踏まえると、すず子と千夏は「表と裏」の関係であることが示されているのかなと思っています。(カップリングオタクは対比が(ry)

 補足ですが、OP曲は森川千夏役の井口裕香さんが歌ってらっしゃるので、映像を見なくとも曲を聴くだけで「森川千夏の感情〜〜〜!!!」と盛り上がることができます。

4.ED映像  

 こちらはOP以上に直球でちなすずです。なぜかというと、映像に出てくる人間はすず子と千夏のみで、9割方この二人がセットで画面に現れてきます。前半は幼少期のちなすずが春夏秋冬様々な場所で仲良さそうに遊ぶ姿が映し出されるのですが、途中で二人の姿が消えて背景(美麗)だけが残る、という演出になっているので寂寥感があり胸を締め付けられます。すず子/千夏がセレクターバトルのせいで記憶を失い、過去の楽しかった思い出も失くしてしまったという解釈や、2話以降の千夏がすず子との思い出を断ち切ろうとする方向に移ったため、もうこんな風に楽しげな二人を(物語の終盤にならないと)見ることはできないという解釈も可能であり、とにかく妄想がかき立てられる映像です。

 それ以降もとにかくすず子と千夏の関係性に対する妄想が無限に広がる映像になっています。正直ED考察(という名の与太話)だけで一本記事が書けそうです……。

 ここでも向かい合わせ/背中合わせで同じ軌道を回る、背中合わせで互いの手を握るすず子と千夏が描かれており、「ウィクロスを中心に惹かれあい反発し合う二人」「物語の表と裏」というのが強調されているように感じます。最初にEDを見たときは、2話の内容が衝撃的だったのも相まって「うわー!!!本気で私を殺しにきてる!!!!!」とひっくり返ってました。なんというか、二人の人間が同じ軌道をぐるぐる回る演出は「宿命の二人」という感じがしてとても好きです。呪いとしか形容できない関係が大好きなので、OPでもEDでも「この二人は宿命的な関係です!!!切っても切り離せません!!!」と強調されると「いやどうもお世話になります……」としか言えなくなりますね。

5.版権イラスト

 私の把握している限りですが、アニメ版権イラストもちなすず文脈を強化するものばかりです。まずキービジュアル2種がすごい。第一弾は千夏とすず子の背中合わせで、すず子は笑顔で光に当たり、千夏は神妙な面持ちで影の側という「表と裏」文脈のイラストです。続いて現在の公式サイトトップに使われている第二弾は、すず子と千夏の全身に鎖が絡みつき、またその鎖で強く結ばれている、という直球です。絡みついた鎖で繋がれている女二人がトップ画像のアニメが百合じゃないってんなわけねーだろ……という感じになっています。EDの方でも鎖のモチーフは登場しており、またティザーPVで確認できる千夏の台詞にも「私を縛る鎖」というのがあり、どうやらこの二人の関係性は鎖に例えられるもののようで完全に私を殺しにきてます。(鎖=セレクターバトルの暗喩とも解釈できますが……)

 さらに、主題歌CD2種のアニメ盤ジャケットイラストも強い。OPは上下反転して並んだ千夏とすず子であり、これまた二人の腕が黒い紐に巻き付かれて緩く結ばれています。某吹奏楽アニメで「引力」という紹介がなされていた女二人がいましたが、こっちも負けてねーぞ!と言わんばかりに二人を何かで結びつけようと必死です。そして、EDのジャケイラストではまたまた背中合わせです。背中をくっつけて座った千夏とすず子が描かれています。……どこ見てもちなすずしかいねえ……(最高)

 これから色々増えていくかと思いますが、百合系の版権絵はおそらくちなすずに全振りしていくスタイルなのではないでしょうか。

6.再会系幼なじみ

 すず子と千夏は作中時間からちょうど8年前(当時二人は8、9歳)にすず子の転校で離ればなれになってしまったことが示されています。具体的にいつ頃仲良くなってどれくらいの期間を共に過ごしたのかははっきりとわかりませんが(EDでは春夏秋冬の様子が示されているので最低でも1年間は一緒にいた)再会系幼なじみ鉄板の「再会の約束」「思い出の品」の双方を兼ね備えているので完璧です。どういうやりとりがあったのかという回想もちょくちょくなされているので、幼少期の二人の関係性がどうだったかは本編を見ればすんなり入ってくると思います。

 ちなすずは再会系幼なじみの醍醐味が詰め込まれているカップリングです。前作の劇場版でるみさちという再会系幼なじみの頂点を極めたようなカップリングが出てきたので二番煎じにしかならないのでは……という危惧もあったのですが、るみさちに似た共依存系でありながらまた違うアプローチを見せてくれたのでウィクロスのアニメシリーズには頭が上がりません。

 具体的にどこがどう良いか述べていくと、この共依存型再会系幼なじみという設定は「記憶を賭けて戦う」という今作のセレクターバトルのコンセプトに非常に良く合致しています。母親とはおそらく死別し、父親とはコミュニケーション不足の上に仕事の都合であちこち転居を繰り返し友達のいないすず子にとって、千夏との思い出だけが人生の拠り所です。彼女は絶対に千夏との思い出を失いたくない、だから強制的に参加させられたとはいえ、セレクターバトルを放棄するわけにはいかないのです。また会いたいという強い気持ちや、二人の楽しかった思い出という要素は再会系幼なじみの肝ですが、それ自体が物語の推進力になっているのはさすがというか、何度も言ってますがロストレージは「すず子と千夏の関係性を巡る物語」なんだなあと感慨深くなります。

 また、次の項目でも詳しく述べますが、森川千夏の側では再会系幼なじみの「闇」の部分が凝縮されています。千夏もまた、すず子と同様に思い出を支えにして頑張ってきました。中学のときに父親の会社が潰れて家を引き払ったときも、私立の進学校への入学を諦めていませんでした。志望校へ無事入学して学費免除のために必死に勉強し、さらにバイトも欠かさないという頑張りようです。バイトから帰って夜遅く勉強しているとき、すず子と一緒に撮った写真を眺めて、かつて自分がすず子に送ったエールの言葉である「ガンバ!」という掛け声で自分を奮い立たせている様子が描かれます。

 しかし、2話で千夏の「頑張る支え」であったすず子との思い出が、「生き方を縛る鎖」に反転してしまいます。要するに千夏の側では「会えなかった期間の内に思い出の持つ意味が歪められてしまう」という再会系幼なじみの負の面が強調されているのです。最初はただ純粋にすず子が自分に憧れてくれていることを嬉しく思っていただけだったのが、次第に「すず子に憧れて貰えるような模範的な自分でなければならない」に変わってしまったのが……。

 再会系幼なじみは通常の幼なじみと違って長期間のブランクがあります。その中で変わったもの、変わらないものがあり、それらの絡み合いと互いの認識の擦り合わせがこうしたカップリングの醍醐味だと言えるでしょう。ちなすずにおいては、すず子→千夏の会いたいという気持ち、心の支えになっていることが変わらないものとして保持され、千夏→すず子における同様の気持ちはさまざまな事情が重なって「断ち切るべき鎖」に変質してしまったということです。これを書いている時点(3話放送後)ではまだちなすずが再会してはいないのですが、4話で二人の邂逅が達成されるようなので、これからどのような形で互いの互いに対する認識のぶつかり合いが生じるのか楽しみで仕方ありません。

 7.森川千夏の馬鹿でかい感情

 ぶっちゃけこの項目が書きたくてここまで頑張って書いたという感じです。1で述べたように、事前情報の段階ではすず子の方が感情の重い女だと思っていました。しかし、2話でその考えは覆されます。森川千夏の方が穂村すず子よりはるかに感情の重い女だったのです。

 穂村すず子の森川千夏依存が凄まじいのは事実ですが、それにはそれなりの理由があります。6でも述べたように、家族間のコミュニケーションが不十分であり、その上転校を繰り返していたせいで長く付き合った親友が千夏以外にいないからです。キャラクター紹介文でも「学校に馴染んだ頃に次の街へ転校の繰り返しだったため、周囲に気を遣い慎重に自分を押し殺す習慣に拍車がかかった」と書かれています。そのような状態では、千夏との思い出以外によすがとなるものがないのは当然だと言えます。要するに、すず子の千夏依存は環境の悪さが主因なのです。もし父親がすず子にきちんと向き合い、千夏以外の親友を作ることが出来ていればすず子は千夏に依存せず、セレクターに選ばれることもなかったかもしれません。

 対して森川千夏のすず子依存には、環境的な原因はありません。千夏が中学生のとき、彼女の身にも親の会社が倒産して貧乏生活を送るはめになるという悲劇が起こるのですが、それはすず子依存の原因ではありません。そのずっと前からすでに千夏の心はすず子に囚われていたのです。

 親の会社が倒産し、私立の進学校には行けないかもしれないとなったとき、千夏の心によぎったのは「私、ちーちゃんみたいになる!」というすず子の言葉でした。千夏は親のためや自分のためではなく、「すず子に憧れられる自分であるため」だけに今の無茶な生活(定期テストでの学年順位トップ10キープと連日の夜遅くまで続くバイトの両立)を選んだのです。

 また、セレクターに選ばれた後の千夏は頑なに千夏所持ルリグ(メル)固有のコイン技を使おうとしません。なぜなら、メルのコイン技は「人の心を操る」というもので、そうした行為は「すずの憧れである私」とは程遠い卑怯な行いだと捉えていたからです。しかし、ほかのセレクターたちはみんな千夏の信条などお構いなしに強力なコイン技をバンバン使ってきます。コイン技を使わない縛りプレイをしていた千夏は連敗し、ついには所持コインが1枚にまで減ってしまいます。今作のセレクターバトルにおけるコインはすなわちその人の記憶そのものです。コインをほとんど失くしてしまった千夏は、すず子の記憶すら曖昧になってしまいます。「すず」が誰なのか、何のために頑張っているのか、千夏はその理由を見失います。しかし、皮肉なことに千夏はすず子の記憶を失っていたおかげでコイン技を使う覚悟が決まり、次のセレクターバトルに勝利するのです。コインが2枚に増え、千夏はすず子の記憶を取り戻します。しかし、千夏はそこで疑問を抱きます。「私、すずのこと忘れてた。私……何のために頑張ってたの?優等生で、いつも正しくて……。すずって、本当に必要?」

  千夏はなぜ自分が優等生でいるために無茶ばかりしてきたのか、その本当の理由に気づきます。

 そう!!!森川千夏は穂村すず子の憧れに応えたいがためだけに無茶な学生生活を送り、セレクターバトルで連敗してきたのです!!!!!

 森川千夏は穂村すず子と違ってずっと池袋住みですし、性格も明るく社交的です。その上元から成績優秀運動神経抜群であったため、当然すず子以外からも大きく評価されてきたはずです。そんな人間に友達がいないわけがない、それどころかたくさんいたはずなのです!それでも、千夏が必要としてきたのはすず子からの評価だけだった!!!その他大勢からの評価は彼女が本当に欲していたものではなかったのです。単に、すず子がそばにいないから、代わりの尺度として使っていたに過ぎません。森川千夏にとっては穂村すず子が世界のすべてと言っても過言ではありません。彼女には優しい両親もいて、すず子以外の友達(こちらはちょっと問題ありそうですが、まさか2話に出てきた二人だけが千夏の友達ということはないと思うので一応書いておきます)もいるはずなのに、彼女が求める人間はすず子以外にいないのです。

 しかし!千夏はそうした自分の精神状態を正しく認識していません。彼女は自ら望んで8年前にすず子から投げかけられた言葉を内面化し、その規範に従って行動してきたはずなのに、責任をすべてすず子本人になすりつけます。恐らく千夏側の物語の推進力となる要素が「すず子の記憶を消したい」になると思われます。(今作のセレクターバトルでは、勝ち抜くと「記憶操作」の報酬が与えられる)すず子の物語の推進力が「千夏の記憶を失いたくない」なのとは対照的です。ティザーPV(今も公式サイトのスペシャルから閲覧可能)では、千夏の声で「自分の思うままに生きる」「私を縛る鎖……」などの台詞を確認できます。千夏はすず子を「自分が自由に生きることを妨げる障害」だと捉えて自分の記憶(どころかこの世界からも?)から消そうとしているのです。

 森川千夏の感情がでかすぎる!!!

 いやおかしいでしょ。親友の言葉を単に心の支えにするんじゃなくて自分の振る舞いを抑制する鎖にしてしまうって、どんだけ想いが深くて重いんだよ。森川お前どんだけ自分がすず子のこと好きかわかってる?んん?

 ついでに、すず子と千夏のこのへんの意識の差はルリグにも如実に表れています。

 すず子のルリグ・リルは千夏がモデルですが、普段は千夏らしい発言をしません。バトル中にすず子が弱気になったときなど、要所要所で発奮させるために千夏の言葉を引用してくるにすぎません。すず子はリルの言葉を通して千夏を感じ、戦う意志を持ち直しています。

 一方で千夏のルリグ・メルは普段からちーちゃんちーちゃん連呼しまくりです。(ちーちゃんはすず子だけの千夏の呼び方)千夏が「その呼び方やめて」と言うほどにしつこく、絶妙に千夏を苛立たせるタイミングですず子の台詞を引用したり、すず子の存在に言及します。

 ここからわかることは、すず子にとっての千夏は「自分を奮い立たせてくれる存在」であり、千夏にとってのすず子は「自分を翻弄する存在」だということです。(すず子と千夏の過去回想の食い違いやリル/メルのキャラ解説からもそのことが察せます)千夏は2話で気づく前から、深層心理で「すず子に縛られている自分」を認識していたのかもしれません。

 

終わりに

 ここまで読んでくださった方がいるのか疑問ですが(長すぎるので)もし読んでくださった方がいましたらこれだけは覚えて帰っていただきたいです。

私にちなすずを恵んでくださいお願いします!!!!!!

 

終わり

るみさちを語る

 劇場版selectorのBDとDVDが本日発売ですね。私は買えるのがまだ先になりそうですが、映画館で合計6回観たくらいには好きな作品なので遅くなっても絶対に手に入れたいです。そんだけ好きなら発売日に買えよとかツッコミが入りそうですが……。今回はごめん、勘弁して……。
 
 とまあここまでがどうでもいい前置きで、ここからが本題です。劇場版selectorと言えば五十嵐留未のための映画だと言っても過言ではないと思います。
 TVシリーズではバックボーンの掘り下げが他キャラと比べて少なく、純粋悪の結晶のように描かれていたウリス(=五十嵐留未)の心情や人間時代のエピソードが追加されたのが劇場版でした。この劇場版でのウリスの扱いに関しては賛否両論といった感じで、TVシリーズのウリスと劇場版の留未を同じ存在として扱いたくないという方から、よりウリス=五十嵐留未を好きになったという方まで(私は後者です)色々観測できました。
 この記事では、なぜ私が劇場版selectorと五十嵐留未を好きになったのかについてグダグダと語りたいと思います。そんなもん読む人がいるのか?という話ですが、一応ブログなので語りかける形で記述していきます。

 まず前提として、私は百合厨です。女と女のあらゆる関係性に萌えまくる人間です。そういうわけで、劇場版selectorと五十嵐留未をめちゃくちゃ好きになったのも、劇場版で新規に描かれた五十嵐留未と戸賀崎幸の関係性がクリーンヒットしたからというのが一番大きな理由です。
 記事タイトルが「るみさちを語る」なのはそういうことですね。劇場版selectorと五十嵐留未について語ることはすなわちるみさちについて語ることと同義だと思ってます。TVシリーズ総集編である劇場版の新規カットはほとんど留未と幸に関わる内容でしたからね。

 手始めに五十嵐留未=ウリスの人格と、その形成に戸賀崎幸がどう影響したかについて妄想成分マシマシで私見を述べていきたいです。
 まず、私は留未を本質的にぶっ壊れた人間だと捉えています。「ぶっ壊れた」というのはローゼンメイデンで言うところの「ジャンク」です。大袈裟な表現かもしれませんが、「社会に望まれていない存在」といった感じですかね。
 私の考えでは、 留未は両親の不在や叔母からの虐待とは関係なしに、初めから社会の敵となり得る残虐性を持ち合わせていたと思います。単に社会への適応が苦手な性格というわけではなく、放っておくと他の人間を積極的に害するような人格なのが五十嵐留未です。(実際に沢山の人間の心を深く傷つけてますしね。)このような性質を持つ至った背景を家庭環境だけに求めるのは違うんじゃないかなという気がしてます。
 仮に家庭環境が良かったとしても、どこかの段階で虫や小動物を殺したり、人間の心を踏みにじる行為の愉しさに気付いていたのではないかと思います。まあ私の願望を含んでますが……。でも小中学生の段階であそこまで明確に残虐性と共感力の無さを示しているとなると、やっぱり先天的な部分が大きいのかなと思います。「家庭のせいでこうなったんだ!」というよりも、「元からどうしようもなく壊れていた(そしてさらに周囲の環境が追い討ちをかけた)」の方がしっくりくる。
 さらに、留未は外面を上手く取り繕うこともできる。つまり、彼女は社会に適応する能力がないんじゃなくて、むしろありすぎるくらいなんだけどそれを完全に打ち消す暴力性を持て余しているわけなんですよね。人間社会にとってはなかなかの脅威。素知らぬふりして中に潜り込んできて、内部からじわじわと蝕んでいくみたいなことも能力次第でできちゃいますからね。
 で、ここから幸を絡めて話します。私の解釈では、五十嵐留未は「最初から壊れていた」ということになってるんですが、でもその解釈って劇中での「いつも全部助けてよ私のこと!」などのセリフから読み取れる、彼女が抱えていた寂しさや脆さをガン無視してません?というツッコミも想定できる。つまり、「大人からの愛情を十分に受けられなかったために歪んで育ち、愛情を試すために相手をわざと攻撃しているのが作中の五十嵐留未であり、環境が違っていれば普通の人間に育っていた」という解釈の方が自然じゃないかということですね。
 確かに、留未にはそういう人間臭い面もあると私も思っています。純粋な悪性人間ではなく、単に寂しさや被害妄想を拗らせた弱い人間の部分も持ち合わせている。ただ私が思うのは、留未の「脆さ」を作ったのは家庭環境というよりも、むしろ戸賀崎幸なのではないかということです。
 「人間らしい情動が元から欠けていた留未にとって、家庭環境が悪いくらいは特に問題でもなんでもなかったのが、幸に出会って交流を重ねてしまったせいで寂しいとか好きだとかの感情を獲得してしまい、純粋悪ではなくなってしまった」というのが私の解釈(あるいは願望)です。
 中学以降の留未が自分を取り繕うようになったのも「自分を見て欲しいから、好きになって欲しいから」ではなく「そうしないと大人の目を誤魔化して悪事を働けないから」だったわけですし、やっぱり単純に留未を「暴走したメンヘラ」枠に押し込むのはなんか違うかな〜と。
 ここまで上手く自分の解釈を伝えられている気がしないんですが、要するに本来的な純粋悪としての暴力性と、幸に出会って芽生えた人間らしい欲求から発展した自己破滅願望(ただし他人も巻き込む)とが複雑に絡み合っていたのが劇場版の五十嵐留未=ウリスなのではないかと思います。
 留未は劇中で「手を差し伸べてくれた人も結局どこかに行ってしまう」みたいなことを言うわけですが、これは完全に幼少期に幸と離ればなれにされてしまったことがトラウマになってるせいですよね。唯一の友達であり自分に感情を与えてくれた人間と半永久的に引き離されてしまうわけで、そんなもんめちゃくちゃ傷つきますよ。その上留未の素の人格についていける人間なんて幸しかいませんからね。普通は途中で逃げる。それはもう「みんな私のこと置いてっちゃうんだ〜」という思考回路になってしまうのも頷ける。

 んで次に戸賀崎幸の感情についても話します。映画冒頭における横断歩道での出来事は、幸にとって留未と引き離されたときのことを含めて大きなトラウマになっていると思います。
 あそこで「置いて行かれた」「一人にされた」のは幸であって留未ではないのですが、終盤で幸が「一人にはさせない」「ずっと謝りたかった」と発言しているのを踏まえると、後になって幸は「あのときすぐに追いかけず、留未をひとりぼっちにさせてしまったこと」を後悔していたと考えられます。
 加えて、留未が家を出て施設に預けられることになったとき、横断歩道のときとは異なり幸は必死で留未を乗せた車を追いかけるわけですが、当然まだ小さな子どもである幸はそれを引き止めることができないわけです。
 つまり幸は二回も留未を「置き去り」にしてしまったわけで、しかしそれは幸が責められるべきことではないはずなのに、彼女は自分を責め続けていたんですよね。実際の運動の方向的には留未が幸を置いていくわけですが、心情的には留未の方が「置いていかれた」となっているのがね……また良いんですよ……。
 つまりは、「あのとき追いかけきれなくてごめん。一人にしてごめん。」ということなんですが、冷静に考えると凄い。しばらく会ってないのに「留未ちゃんには私が必要だ」ということを微塵も疑ってないのが凄い。会わないうちに更生したかもとか全く思っていない。過去から未来にかけてずっと自分という存在が留未にとっての唯一の救いだと信じて疑ってないのが本当に凄いよ……。いやそれは正しかったわけなんですが……。
 あと「なんで幸は留未のことがそこまで好きなの?」という疑問が残るわけですが、そこはもう「理由なんてない。運命だ。遺伝子が惹かれあったんだ。」がロマンチックなのでそれでいいんじゃないかと。
 あえて理由を考えるとするなら、幼少期の時点では同世代と比べて大人っぽい留未に憧れたのだと想像できるし、留未が施設に行って以降は、「追いかけてあげられなかった」という強い罪悪感が「だからもう離さない」という執着心に変わったとみなすこともできる。会えなかった時間が逆に愛を濃縮させてしまったわけですよ。
 あとはパンフでも触れられてたように「光は闇を求める」というやつ。自分の正反対の人間に引き寄せられてしまうんだ〜というアレですね。まあとにかく幸がなぜ留未を好きなのかということは、少なくとも私にとって重要なことじゃないです。でもそのへんの補完をしたお話は読んでみたい。

 ここまで結構長くなりましたが、最後です。るみさちが迎えた結末に関してです。
 私は、あの結末は至上のハッピーエンドだと思っています。あれ以外に留未を救う方法はない。
 なぜそう思うかというと、留未が根本的に(社会にとって)間違った存在だからです。(独自解釈に独自解釈を重ねるスタイル)留未が元の世界に戻ったところで、彼女の居場所はない。幸が一緒にいようとも留未の人格の根本はそのまま変えようがないと思うし、幸もそれを望んでいない。

 ここでちょっと話が脱線しますが、自分でるみさちが普通に制服でいちゃいちゃしてる絵を描いたりもしたんですが、それはあくまでも「絶対にない未来」だからこそ描くのが楽しい!みたいなアレでした。正直あの絵だけ見たら「こいつもキャラの持つ固有性を捻じ曲げて『普通』に落とし込む雑魚か……」と思われかねませんが、描いてるこっちも「絶対あり得ない」と思いながらだったので許してください……。TVシリーズでの人間タマみたいな夏の幻イメージなんです……。二人揃って地獄に行った公式のるみさちが一番好きなんです………。
  
 話を戻します。そういうわけで、じゃあ留未が救われるにはどうすればいいかというと、常人の住まう世界を捨てて、幸と二人きりの別世界に引きこもるしかないんですね。
 そうすれば誰も傷つかないし留未も幸せだし、万々歳大ハッピーエンドというわけです。実際にラストシーンで二人の姿が肯定的に描かれていましたしね。
 それで、私がるみさちに一番感動したポイントはここです。「二人きりで地獄(のような場所)に落ちる」というだけでも「えっそれを公式でやっちゃうの???」と大歓喜ポイントなんですが、加えてその末路が肯定的に描写されてるのも大変素晴らしい。
 留未のような人間でも、彼女なりのやり方で幸せになっていいんだ、他人から見れば明らかに不健全であっても、本人たちが満たされているのならそれは幸せと呼んでいいんだ、と公式から言って貰える(意図がまるきり違ってたらごめんなさい)のは本当にこっちまで救われたような気分になりました……。ありがとうございます……。
 不健康で退廃的で閉鎖的な関係性大好き!そういう「間違ったもの」が自然に肯定される世界大好き!!!

 というわけで、なんだかえらくまとまりがなくオチもない文章になりましたが、以上が私のるみさちに対する所感になります。ここまで読んでくださった方がいるか分かりませんが、ありがとうございました。鋭い牙を持っていて暴力的なのに柔らかくて脆い急所が丸見えな五十嵐留未が好き。