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君の手のひらの怪文書

とある百合厨のうわ言

るみさちを語る

 劇場版selectorのBDとDVDが本日発売ですね。私は買えるのがまだ先になりそうですが、映画館で合計6回観たくらいには好きな作品なので遅くなっても絶対に手に入れたいです。そんだけ好きなら発売日に買えよとかツッコミが入りそうですが……。今回はごめん、勘弁して……。
 
 とまあここまでがどうでもいい前置きで、ここからが本題です。劇場版selectorと言えば五十嵐留未のための映画だと言っても過言ではないと思います。
 TVシリーズではバックボーンの掘り下げが他キャラと比べて少なく、純粋悪の結晶のように描かれていたウリス(=五十嵐留未)の心情や人間時代のエピソードが追加されたのが劇場版でした。この劇場版でのウリスの扱いに関しては賛否両論といった感じで、TVシリーズのウリスと劇場版の留未を同じ存在として扱いたくないという方から、よりウリス=五十嵐留未を好きになったという方まで(私は後者です)色々観測できました。
 この記事では、なぜ私が劇場版selectorと五十嵐留未を好きになったのかについてグダグダと語りたいと思います。そんなもん読む人がいるのか?という話ですが、一応ブログなので語りかける形で記述していきます。

 まず前提として、私は百合厨です。女と女のあらゆる関係性に萌えまくる人間です。そういうわけで、劇場版selectorと五十嵐留未をめちゃくちゃ好きになったのも、劇場版で新規に描かれた五十嵐留未と戸賀崎幸の関係性がクリーンヒットしたからというのが一番大きな理由です。
 記事タイトルが「るみさちを語る」なのはそういうことですね。劇場版selectorと五十嵐留未について語ることはすなわちるみさちについて語ることと同義だと思ってます。TVシリーズ総集編である劇場版の新規カットはほとんど留未と幸に関わる内容でしたからね。

 手始めに五十嵐留未=ウリスの人格と、その形成に戸賀崎幸がどう影響したかについて妄想成分マシマシで私見を述べていきたいです。
 まず、私は留未を本質的にぶっ壊れた人間だと捉えています。「ぶっ壊れた」というのはローゼンメイデンで言うところの「ジャンク」です。大袈裟な表現かもしれませんが、「社会に望まれていない存在」といった感じですかね。
 私の考えでは、 留未は両親の不在や叔母からの虐待とは関係なしに、初めから社会の敵となり得る残虐性を持ち合わせていたと思います。単に社会への適応が苦手な性格というわけではなく、放っておくと他の人間を積極的に害するような人格なのが五十嵐留未です。(実際に沢山の人間の心を深く傷つけてますしね。)このような性質を持つ至った背景を家庭環境だけに求めるのは違うんじゃないかなという気がしてます。
 仮に家庭環境が良かったとしても、どこかの段階で虫や小動物を殺したり、人間の心を踏みにじる行為の愉しさに気付いていたのではないかと思います。まあ私の願望を含んでますが……。でも小中学生の段階であそこまで明確に残虐性と共感力の無さを示しているとなると、やっぱり先天的な部分が大きいのかなと思います。「家庭のせいでこうなったんだ!」というよりも、「元からどうしようもなく壊れていた(そしてさらに周囲の環境が追い討ちをかけた)」の方がしっくりくる。
 さらに、留未は外面を上手く取り繕うこともできる。つまり、彼女は社会に適応する能力がないんじゃなくて、むしろありすぎるくらいなんだけどそれを完全に打ち消す暴力性を持て余しているわけなんですよね。人間社会にとってはなかなかの脅威。素知らぬふりして中に潜り込んできて、内部からじわじわと蝕んでいくみたいなことも能力次第でできちゃいますからね。
 で、ここから幸を絡めて話します。私の解釈では、五十嵐留未は「最初から壊れていた」ということになってるんですが、でもその解釈って劇中での「いつも全部助けてよ私のこと!」などのセリフから読み取れる、彼女が抱えていた寂しさや脆さをガン無視してません?というツッコミも想定できる。つまり、「大人からの愛情を十分に受けられなかったために歪んで育ち、愛情を試すために相手をわざと攻撃しているのが作中の五十嵐留未であり、環境が違っていれば普通の人間に育っていた」という解釈の方が自然じゃないかということですね。
 確かに、留未にはそういう人間臭い面もあると私も思っています。純粋な悪性人間ではなく、単に寂しさや被害妄想を拗らせた弱い人間の部分も持ち合わせている。ただ私が思うのは、留未の「脆さ」を作ったのは家庭環境というよりも、むしろ戸賀崎幸なのではないかということです。
 「人間らしい情動が元から欠けていた留未にとって、家庭環境が悪いくらいは特に問題でもなんでもなかったのが、幸に出会って交流を重ねてしまったせいで寂しいとか好きだとかの感情を獲得してしまい、純粋悪ではなくなってしまった」というのが私の解釈(あるいは願望)です。
 中学以降の留未が自分を取り繕うようになったのも「自分を見て欲しいから、好きになって欲しいから」ではなく「そうしないと大人の目を誤魔化して悪事を働けないから」だったわけですし、やっぱり単純に留未を「暴走したメンヘラ」枠に押し込むのはなんか違うかな〜と。
 ここまで上手く自分の解釈を伝えられている気がしないんですが、要するに本来的な純粋悪としての暴力性と、幸に出会って芽生えた人間らしい欲求から発展した自己破滅願望(ただし他人も巻き込む)とが複雑に絡み合っていたのが劇場版の五十嵐留未=ウリスなのではないかと思います。
 留未は劇中で「手を差し伸べてくれた人も結局どこかに行ってしまう」みたいなことを言うわけですが、これは完全に幼少期に幸と離ればなれにされてしまったことがトラウマになってるせいですよね。唯一の友達であり自分に感情を与えてくれた人間と半永久的に引き離されてしまうわけで、そんなもんめちゃくちゃ傷つきますよ。その上留未の素の人格についていける人間なんて幸しかいませんからね。普通は途中で逃げる。それはもう「みんな私のこと置いてっちゃうんだ〜」という思考回路になってしまうのも頷ける。

 んで次に戸賀崎幸の感情についても話します。映画冒頭における横断歩道での出来事は、幸にとって留未と引き離されたときのことを含めて大きなトラウマになっていると思います。
 あそこで「置いて行かれた」「一人にされた」のは幸であって留未ではないのですが、終盤で幸が「一人にはさせない」「ずっと謝りたかった」と発言しているのを踏まえると、後になって幸は「あのときすぐに追いかけず、留未をひとりぼっちにさせてしまったこと」を後悔していたと考えられます。
 加えて、留未が家を出て施設に預けられることになったとき、横断歩道のときとは異なり幸は必死で留未を乗せた車を追いかけるわけですが、当然まだ小さな子どもである幸はそれを引き止めることができないわけです。
 つまり幸は二回も留未を「置き去り」にしてしまったわけで、しかしそれは幸が責められるべきことではないはずなのに、彼女は自分を責め続けていたんですよね。実際の運動の方向的には留未が幸を置いていくわけですが、心情的には留未の方が「置いていかれた」となっているのがね……また良いんですよ……。
 つまりは、「あのとき追いかけきれなくてごめん。一人にしてごめん。」ということなんですが、冷静に考えると凄い。しばらく会ってないのに「留未ちゃんには私が必要だ」ということを微塵も疑ってないのが凄い。会わないうちに更生したかもとか全く思っていない。過去から未来にかけてずっと自分という存在が留未にとっての唯一の救いだと信じて疑ってないのが本当に凄いよ……。いやそれは正しかったわけなんですが……。
 あと「なんで幸は留未のことがそこまで好きなの?」という疑問が残るわけですが、そこはもう「理由なんてない。運命だ。遺伝子が惹かれあったんだ。」がロマンチックなのでそれでいいんじゃないかと。
 あえて理由を考えるとするなら、幼少期の時点では同世代と比べて大人っぽい留未に憧れたのだと想像できるし、留未が施設に行って以降は、「追いかけてあげられなかった」という強い罪悪感が「だからもう離さない」という執着心に変わったとみなすこともできる。会えなかった時間が逆に愛を濃縮させてしまったわけですよ。
 あとはパンフでも触れられてたように「光は闇を求める」というやつ。自分の正反対の人間に引き寄せられてしまうんだ〜というアレですね。まあとにかく幸がなぜ留未を好きなのかということは、少なくとも私にとって重要なことじゃないです。でもそのへんの補完をしたお話は読んでみたい。

 ここまで結構長くなりましたが、最後です。るみさちが迎えた結末に関してです。
 私は、あの結末は至上のハッピーエンドだと思っています。あれ以外に留未を救う方法はない。
 なぜそう思うかというと、留未が根本的に(社会にとって)間違った存在だからです。(独自解釈に独自解釈を重ねるスタイル)留未が元の世界に戻ったところで、彼女の居場所はない。幸が一緒にいようとも留未の人格の根本はそのまま変えようがないと思うし、幸もそれを望んでいない。

 ここでちょっと話が脱線しますが、自分でるみさちが普通に制服でいちゃいちゃしてる絵を描いたりもしたんですが、それはあくまでも「絶対にない未来」だからこそ描くのが楽しい!みたいなアレでした。正直あの絵だけ見たら「こいつもキャラの持つ固有性を捻じ曲げて『普通』に落とし込む雑魚か……」と思われかねませんが、描いてるこっちも「絶対あり得ない」と思いながらだったので許してください……。TVシリーズでの人間タマみたいな夏の幻イメージなんです……。二人揃って地獄に行った公式のるみさちが一番好きなんです………。
  
 話を戻します。そういうわけで、じゃあ留未が救われるにはどうすればいいかというと、常人の住まう世界を捨てて、幸と二人きりの別世界に引きこもるしかないんですね。
 そうすれば誰も傷つかないし留未も幸せだし、万々歳大ハッピーエンドというわけです。実際にラストシーンで二人の姿が肯定的に描かれていましたしね。
 それで、私がるみさちに一番感動したポイントはここです。「二人きりで地獄(のような場所)に落ちる」というだけでも「えっそれを公式でやっちゃうの???」と大歓喜ポイントなんですが、加えてその末路が肯定的に描写されてるのも大変素晴らしい。
 留未のような人間でも、彼女なりのやり方で幸せになっていいんだ、他人から見れば明らかに不健全であっても、本人たちが満たされているのならそれは幸せと呼んでいいんだ、と公式から言って貰える(意図がまるきり違ってたらごめんなさい)のは本当にこっちまで救われたような気分になりました……。ありがとうございます……。
 不健康で退廃的で閉鎖的な関係性大好き!そういう「間違ったもの」が自然に肯定される世界大好き!!!

 というわけで、なんだかえらくまとまりがなくオチもない文章になりましたが、以上が私のるみさちに対する所感になります。ここまで読んでくださった方がいるか分かりませんが、ありがとうございました。鋭い牙を持っていて暴力的なのに柔らかくて脆い急所が丸見えな五十嵐留未が好き。